【 まとめとしての自己インタビュー 深川雅文 】
2015年から始めた「ARTxBIKE展」のフィナーレを迎え、企画したキュレーターとして、展覧会と自分の意識を記録するためにも、まとめのテクストをしたためておきたい。2017年のARTxBIKE展の参加作家の皆さんのインタビューで尋ねた三つの事柄を、自分自身に問いかけるという形で進めてみよう。
1.展覧会の内容と意図についてお聞かせください。
絵画を描くアーティストに「なぜ、この風景を描いたのですか」と尋ね、「この場所から、視覚だけでなく体全体で心地よい感覚を覚えて、これを描きました」という答えが出てきたとしたら、なるほどと頷くことでしょう。自分自身では何も描かないキュレーターは、この画家の立ち位置にいることはできませんが、この展覧会に関しては、似たような答えをしてもおかしくはないと思います。そこが、これまで企画してきた様々な展覧会とは大きく異なります。こう答えることができるでしょう。「ロードバイクで街や山を走っていたら、体全体で名状しがたい心地よい感覚を覚えて、この展覧会を企画しました」、と。つまり、身体的な感覚がこの展覧会の根底にあったのです。
自転車で走っている間は、その豊かな感覚と生の喜びに圧倒され、常々、考えているアートやテクノロジーの事柄や自分が生きている社会や文化のことは頭から消え去っています。そして、ある日、自転車から降りてから、そうした事柄にキュレーターとして考えを巡らしていた時に、自転車=バイクが、展覧会の企画の対象として僕の脳裏にやおら浮上した、というのが偽らざる真実なのです。アートとデザイン、そしてテクノロジーの動向は、キュレーターとしての自分にとって、常に中心的な関心にありました。スマートフォンの普及に象徴される21世紀に入ってからのデジタル化社会の急速な進展を目の当たりにしながら、約200年前に生まれた、技術としてはオールドな走行装置である自転車が、自らが体験したその身体的な感覚の覚醒の可能性とともに、いわば、iPhoneと対峙しうる潜在力を持った道具として、新しい輝きを持って見えてきたのでした。
「自転車とアート?」という怪訝な反応は、おそらく、19世紀の詩人でもあったあのロートレアモン伯爵の有名な詩句を聞いた人が持つ問い「解剖台の上のミシンとこうもり傘?」くらいに、奇妙な連想だと思われたかもしれません。否、否、否! 「自転車とアート」と口にした瞬間に、あの作品が心の中に大きく姿を現してきました。マルセル・デュシャンの「自転車の車輪」(1913)です。デュシャンの芸術上の革新と核心をなす「レディ・メイド」の初期の作品として美術史上に燦然と輝く問題作の一つが自転車と結びついていたのです。自転車とアートの、これほど美しくそしてシュールなマリアージュはありません 。
そこから、自転車とアートという座標軸上に、アートとデザインそしてテクノロジーで紡がれる万華鏡的な風景が立ち上がってきました。そうした視点でアートの歴史的な展開を見ると、実は、自転車は様々な仕方で芸術家たちと関わっていたことも見えてきました。未来派の画家、ジャコモ・バッラが描いた疾走する自転車の絵画、ブラマンクやリュオネル・ファイニンガーなど画家たちの自転車への熱狂、バウハウスでのカンディンスキーの教室で学生たちがしばしばデッサンに描いた自転車、そのバウハウスで生まれた世界で初の鋼管パイプ椅子を考案したブロイヤーのインスピレーションは自転車に乗っている時にそのフレームを形作る鋼管パイプを椅子の骨格に使ってはと思いついたことに端を発している、等々です。
自転車は、アーティストにとって、インスピレーションの発火点となりうる不可思議な存在であったのです。であれば、自転車をテーマにして、現代のアーティストたちがどのような触発を受け、発想を形にするのだろうか、それを見てみたい。これがこの展覧会のアイデアの発端でした。そこに、自転車を愛しロードバイクのレーサーとしての経験も豊かな自転車の智者であり、アーティストで工房親でアートディレクターを久しく務めてこられたクボタタケオさんとの出会いがあり、意気投合してこの展覧会が現実のものとなったのです。
2.自転車という存在は、あなたにとって、いかなる存在ですか?
ドイツ人のドライス伯爵が生み出したので”ドライジーネ”と呼ばれた、二つの車輪からなる ”走るマシン” の発明から2017年で二百年を迎えました。自転車の原型です。このマシンには、今日の自転車に普通に付いているペダルもギヤもギヤを回すチェーンも付いてなく、跨って、左右の両足で交互に地面を蹴りながら、バランスをとって路上を走るという装置でした。二足歩行とは全く異なるスピード感に溢れた新たな走行感覚は、産業革命が進展を見せていた時代iに生きていた、先取の気風を持ち合わせたジェントルマンたちには人気となり、魅力的な乗り物として受け入れらました。フランスやイギリスなどヨーロッパ諸国に同好の氏の輪を広げ、早くも”ドライジーネ”による競争も行われた模様です。
自転車で走ることは、数万年に及ぶ人類の進化の歴史の中で、初めて、二足歩行から人間を解放し、足が担っていた重力に抗する力を自らを前進させる力に振り向け移動の自由を拡大することだと思います。だからこそ、私たちが子どもの頃に体験した、初めて自転車に乗ることができた時の感動は、私たちにとって根源的なものだと言ってもいいのではないでしょうか。地上から足を離して移動するという意味では、20世紀になって実現した空を飛ぶ機械である飛行機への第一歩が自転車にあったと言うこともできるかもしれません。飛行機の発明者、ライト兄弟が、自転車屋を営み、その稼ぎを飛行実験のための資金としたというエピソードからは、飛行機と自転車を繋ぐ赤い糸を見ることもできましょう。
自転車は、発明としては、すでに古典的な装置であり、世界中、どこにどもある極めて日常的な存在となっています。技術の発展、とりわけ、21世紀に入ってデジタル革命は、さらに進展し、社会を大きく変革しようとしています。”AI” (Artificial
Intelligence)テクノロジーの社会・生活への浸透が進むといった先端技術のパレードが様々なメディアでも毎日のように取り上げられ、例えば「自動車の自動運転」など様々な領域で、自動化によるコンビニエント現象が進む時代に私たちはすでに生きはじめてします。こんなハイテックな時代にオールドファッションの自転車は埋没するかと思いきや、それとは逆に、世界中で、新たな光を放ち始めているようです。例えば、中国も含め、自転車のレンタルシステムの世界的な規模で新たな展開を見せています。個人の生活レベルでも、自転車の楽しさと健やかさに気づく人々が増え、自転車のコミュニティーが拡大しています。自転車の再発見=ルネサンスです。歴史のある乗り物ですが、地球環境の変化に対する意識の高まりなどとともに、自然に優しい、そして、人間の身体にとっても”善き”乗り物として、その価値が新たに発見され出したのです。全てのものが「コンビニエント」なものとなり、人間に先回りして、人間の負担を軽減することを目指すような生活環境が進む中で、逆に、人間に、身体的な存在であることを再認識させてくれる、そして、身体的であることを喜びとして感じることができる装置として自転車の価値が再発見する時代が生まれてきているように感じられます。
また、自転車は、身体的な関わりや感動をベースにしながら、社会・文化に関するこうした思索を巡らせることを進めてくれるありがたい存在でもあります。自転車を発想の起点として置くことで見えてくる、私たちの生活・文化の新たな風景があります。そこから、私たちは、それまでの生活を見直し、来たるべき生活や社会を考え直し、より善き生を生み出すことができる存在なのではないでしょうか。自転車は、自分にとって、そうした、思索的な存在でもあります。そのうち『自転車の哲学と美学』という本が生まれるかもしれませんね。
3.AIが浸透する社会について、あなたはどのように思いますか?
僕が、初めて「AI」という言葉に、現実的なものとして触れたのは、今から30年以上も前のことでした。当時、仕事をしていた渋谷にあるソフトウエアの会社で、パソコン上でAIのプログラミングを行うためのソフトウエアを扱うということになり、そのプロジェクトの広報を担当したのがきっかけでした。パソコンの能力も現在から見ると低く、よちよち歩きの状態でしたが、そこで、AIの研究者やプログラマーたちと出会うことになったのは幸運でした。その中の一人に、将来、AIが文学作品を創作すると信じ、AI文学マシーンを構想し、熱弁していた小方孝という研究者(現在、岩手県立大学ソフトウェア情報学部教授)がいました。文学や芸術がAIにより自動的に生成される未来が来ることを確信した彼から、AIの可能性や夢について多くの示唆を得ることができました。そして、今、AIについて、新聞やメディアで毎日、毎日、語られる時代が突然、到来し、僕にとっては、AIのリバイバルを感じているところです。最近では、思わず知らずに、すでに、自分の行動や思考もどこかでAIのシステムに絡め取られていると感じることも少なくないですね。例えば、Pinterestでの、画像のピンをお薦めするシステムは、まさに、AIの賜物でしょう。時々、意に沿わない変なピンを提案してくるのですが、しようがないなあと笑いながらも楽しんでいます。そのうち、完璧にそのオススメに乗ってしまう時代が来たら、その時は、AIに従属したということになるのかもしれませんね。
三年前の2015年、ARTxBIKEの第一回の展覧会のために記した展覧会マニフェストの冒頭の一節で、スタンリー・キューブリックのSF映画の傑作『2001年 宇宙の旅』(1968年公開)に登場する人間を支配する力を持った人工頭脳のコンピュータ、HAL9000について触れました。今ほどAIが声高に叫ばれてはいなかった時期でした。高度なテクノロジーが支配する社会とそこに生きる人間の生の関係を考える上で、この映画は、私の思考回路に大きな痕跡を残しています。そうした高度な技術が支配する社会から、人間の身ひとつで逃走するためのヴィークルこそが、自転車ではないのか、というイメージが僕にはありました。このイメージは、今も揺いでいません。身体的な存在としての人間は、自転車によって、肉体と感覚を再活性化させ、それは、人間の身体感覚を風前の灯火にならんとする瀬戸際で呼び覚ます装置となると思っています。人間性の回復装置としての自転車の存在は、AI化社会が進めば進むほど、その価値を深めることでしょう。
今年、2017年のこの秋、つい先日、10月24日に日本でプレミア公開が行われたばかりで話題になっている映画『ブレード・ランナー2049』は、リドリー・スコット監督のオリジナル版『ブレード・ランナー』(1982年公開)のテーマを引き継ぎ、AIの権化であるレプリカントと人間との戦いを描いている。『2001年 宇宙の旅』そしてさらに遡るとフリッツ・ラング監督の『メトロポリス』(1927年公開)で問題化された、高度テクノロジーが生み出した環境とそれをコントロールできなくなっていく人間とのコンフリクトの物語は、スクリーン上の話から、現実の話となってこれからさらに展開されようとしています。こうした現実に直面するのは、私たちの世代が初めてとなります。もはや、SF(Science FIction)ではなく、SR(Science Reality)となるのですね。信じられないと頭を振ってももう無理なのかもしれません。それがある種の戦いとなるのか、共生となるのか、それを考える上でも、自転車的な感覚は有効であると思っています。
『ブレード・ランナー』では、人間そっくりのレプリカントかどうかを判定する取り調べのシーンがあります。そこで、いい方法を思いつきました。映画の中で行われるように、瞳孔の変化を拡大鏡で見ながら、質問への反応から判断するのもいいのですが、自転車に乗らせて見るといいのかもしれません。そして、自転車で走ることの楽しさを語ってみろと尋ねるのです。レプリカントは、どう答えていいのかわからずに、人工知能の回路はショートして正体を現すことに…。どうでしょうか?
あるいは、将来、自転車で楽しむレプリカントと一緒にライドするという時代が来るのでしょうか?その日に備えて、僕は、もっともっとバイクで走り、人間として身体と感覚の研鑽を積み、ライドの本質を掴まないといけませんね…女性型レプリカント・ライダーの笑顔に騙されてしまっても…いいのでしょうかね…それとも… ( 思考回路ショートにつき会話はここまで… )
Who
am I ?
May the Art & Bike be with You and me!